やっとコロナの療養期間が終わって、元気モリモリ・・・と言いたいところですが、まだ体も本調子とは言えません。
こういう時は近場で、手軽に行ける気になる場所に行ってみるのもいいかも。
ということで、今回は大阪市の大願寺(ダイガンジ)に行ってきました。
ここは、口が災いして人柱になった淀川の悲話、巌氏長者縁の地です。
巌氏(イワウジ)長者について
先に書いておきますが、今から紹介するのは長柄の人柱伝説と呼ばれるお話ですが、所在地や時代に諸説あり明らかではありません。
推古天皇の時代(613年)とも、嵯峨天皇の時代(812年)とも言われているお話です。
まぁどっちにしても随分昔の話です。(適当)
その当時、淀川に橋(長柄橋)を架ける工事をしていましたが、川の流れが急なため、計画は困難を極めました。
そこで、役人は垂水村(現在の大阪府吹田市垂水町)に住む巌氏長者に相談をしました。
巌氏さんは
「袴に継ぎのある人を人柱にしなさい。」
と言いました。
この「継ぎ」ってのは「継ぎ接ぎ」の継ぎだと思います。
当時なので、今みたいに衣服が多量にあったとは考えにくいですから、袴に継ぎがあることはごく自然だったかと思います。
で、画像のとおりなんですが、行った傍からこの巌氏さんの袴には継がありました。(笑)
当時の状況考えると、この画像みたいにパッチワークみたいな目立つ継ではなくて、同色の布で継ぎがされていたと思うんだけど、「役人は巌氏の意向をくみ、本人を人柱に選定した。」らしいので、自らが人柱になってしまいました。
しかし、上の文章の「役人は巌氏の意向をくみ」ってところ、妙に悪意を感じるのは僕だけ?お金持ちってことで鼻持ちならないとか、あんまり好かれていなかったんでしょうか?
そんな巌氏には愛娘がいまして、光照前(テルヒノマエ)といいました。
彼女は父が人柱になったことにショックを受けて、言葉を発することができなくなってしまいました。
光照前は嫁いでいたのですが、嫁ぎ先でも口が聞けなくなってしまい、やがて実家に帰されることになります。
しかし、その道中で雉が鳴くのを聞くと、夫は持っていた弓でその雉を射殺しました。
それを見た光照前は、
「ものいわじ 父は長柄の 橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし」
と歌を詠みました。
父親もものを言わなければ人柱になることもなかったし、「雉も鳴かずば撃たれまい」ってことなんでしょうね。
まんまですが、これがことわざの元ネタなんでしょう。
ともかく、妻が話せるようになったことを喜んだ夫は、妻を実家に帰すことなく、連れ帰りその後仲良く暮らしたそうです。
めでたしめでたし?
まぁ、一説には人柱になったという史実はなくて、袴の継ぎというのは、橋を袴のカタチに見立てて、継ぎをしていくという建築技術の比喩とか、人柱にされたのは通りすがりの夫婦の夫だとか、本当にいろんな説がある話です。
今回は、そんな巌氏の縁のあるスポットとして「雉子畷碑」(前述の雉が葬られた場所)と大願寺(ダイガンジ)「長柄人柱巌氏碑」に行きたいと思います。
行ってきた
で、いざ行ってみようと思うと、なんで今まで行かなかったかを思い出しました。
場所的には下宿先から30Km以上離れていまして、自転車で行けなくはないけど、ちょっと遠い。
まぁ、初夏とは言え、まだ体が本調子じゃない間は自転車で行くべきではないかな・・・。
で、大阪市内だから、バイクでいくには微妙に不便か?
と言ったところです。
地図で見たところ大通り沿いでもなく、参る間のバイクの保管をどうしたものかちょっと心配です。
最悪は前を通り過ぎるだけになるかも・・・。
ということで、今回は車で行くことにしました。
まぁ結論から言うと天気も悪かったから、車で正解でしたね。
大阪市から御堂筋を北上して、大願寺に向かいました。
東淀屋橋のすぐ近くなので、コインパーキングに停めて歩きます。
で、これが「長柄人柱巌氏碑」です。
大願寺の飛地境内になりますが、お寺からは歩いてすぐです。
まぁ見ての通り石碑ですね。
フェンスで仕切られてるから近くに寄ることはできません。
ってゆーか、左下に写っている樹木が遮って看板を読むことができない・・・。
でも、概ねを読むことはできました。
巌氏長者は、慈悲の心を達するため、自らが進んで人柱になるように「袴の継ぎ」の進言をしたといったことが書かれていて、前項の話のイメージもかなり変わり、国の為に命を使った立派な方って印象になりました。
続いて「雉子畷碑」。
大願寺からは北に4Kmほど離れています。
前項の話と照らし合わせると、嫁ぎ先から実家に妻を送り届ける道中の話なので、もうかなり近くまで来てたんですね。
ちょっとかなり雑ですが、お手製の手書き地図です。(笑)
赤い線は今回通ったルートですね。
こちらの石碑にも巌氏長者は「我が身を顧みず人柱となった」いったニュアンスのことが書かれていました。
そんな巌氏が命を懸けて、完成させた長柄橋ですが現在の場所とは違います。(正確な場所ははっきりとしていません。)
853年頃には、水害によって沈んでしまいました。
とはいえ、経緯はわからないのですが、現在も「長柄橋」の名は淀川にかかる橋に引き継がれています。
僕も仕事でこの橋はよくとおるので、この逸話に思いを馳せながら通るようにしたいと思います。
では、最後までお読みいただきありがとうございました。