日本史に疎い僕が百舌鳥・古市古墳群を回ってみた-5 仁徳天皇陵と履中天皇陵、反正天皇陵

どうも、元山狐です。
今回は中百舌鳥古墳群の方に行ってみました。

メインでご紹介するのは、日本で一番大きな古墳仁徳天皇陵です。




古墳の形、大きさ

形ですが、毎度どおり前方後円墳です。

大きさは約486Mでして、これは全国1位の大きさです。

エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界を代表する巨大墳墓の一つです。
面積では、これらの中でも最も広く世界一と言われています。

作られたのは5世紀半ばと言われていて、始皇帝陵が紀元前210年頃、クフ王のピラミッドが紀元前2560年頃ということで、比較すると巨大墳墓の中ではダントツで新しいものとなります。

付近には

この仁徳天皇陵というよりは、今回紹介する中百舌鳥古墳群付近という格好の紹介になりますが、

  • 堺市博物館
  • 自転車博物館
  • 大仙公園
  • 堺市立文化館

なんかがあって、1日じゃ回りきれないくらいのスポットがあります。

自転車博物館は以前いったことがありまして、博物館としても面白いし、大仙公園をプラプラしながら自転車のレプリカ試乗をしました。
当時の写真を貼っておきますが、子供といくのにちょうどよいカンジでした。



堺市立文化館はミュシャ展が常設されていて、いついってもミュシャの絵が見られる超オススメスポット!

この半券は気に入っていて、本の栞として使っていますw

聖帝と言われた仁徳天皇

父親:応神天皇
母親:仲姫命

これが今回のメインコンテンツですね。
古墳にかこつけて、古代天皇の紹介をしているだけのシリーズになってるような気がしますが、まぁいいでしょう。w

もうこれで、最期にしたいと思うのですが、前回「応神天皇こそが古墳時代のジョセフ・ジョースターなのだ!!(違)」とか戯言を書きました。

その息子にあたる仁徳天皇は、空条承太郎・・・と言いたいのですが、承太郎は「孫」にあたるので、マッチしません。
といって、空条ホリィだ!ってのも、おかしな話ですし。

と考えると、直接の息子となると・・・

「仁徳天皇は古墳時代の東方仗助だ!」

・・・となる(違)のですが、まぁどっちにせよ違和感ありまくるので、もう次からはジョジョに例えるヤツを辞めますw

さて、気を取り直して仁徳天皇を紹介していきますよ!

仁徳天皇は別名「聖帝」とも言われていて、理想の君主像を語るのに比喩されたりします。

「仁徳」というのは諡(おくりな、人の死後に贈る称号で戦前の性質や行いに基いて付ける。)でして、意味としては「他人を慈しみ愛する徳」という中国の古典に依ったものらしいです。

Wikipediaには、
善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。
と紹介されています。

互いに皇位を譲り合った

応神天皇が崩御した後、皇位継承は弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が最有力でしたが、彼は大鷦鷯(おほさざ)天皇(=仁徳天皇)に皇位を譲ろうとしました。

しかし、仁徳天皇もまたそれを固く断り続けました。

こうして、互いに皇位を譲り合った末に、菟道稚郎子は自害してしまいます。

このような経緯があって、難波の高津宮で仁徳天皇の即位となりました。

ってゆーか、ゆずりあって、弟が自害するって結構ショッキングな展開ですね・・・。

民のかまどの話

天皇が即位して3年して、人家の竈から煙が上がっていないことに気付いた天皇は、そこから3年間税を徴収することを辞め、その間は宮殿の修理も許可せず、天皇の衣服、履物も新調せず、倹約して過ごしました。
3年後に人々が豊かになって、やがて煙が国中に満ちるようになりました。

という内容のものなのですが、これが聖帝としてのエピソードとしては有名なんじゃないでしょうか。

・・・と書いたのですが、実は僕はこのエピソードを知りませんでして、聖帝=北斗の拳のサウザーのように、知略と暴挙によって広大な領土を支配し「聖帝」を名乗っている・・・とか思っていましたww

全然イメージが違いますね。

他の実績

以下はWikipediaからの引用です。

  • 河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。
    これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
  • 山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
  • 茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
  • 和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
  • 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
  • 紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

ということで、大規模な土木事業の実績が多くあります。

こう考えると、この人の古墳も権力の誇示というよりは、公共事業の一貫だったような気がします。

実は浮気者?

仁徳天皇の皇后は磐之媛命(いわのひめのみこと)ですが、彼女の墳墓は堺から遠く離れた平城山にあります。

以前紹介した応神天皇陵の近くには、応神天皇の皇后である「中津姫」の墳墓もありまして、通常夫婦なので近くで葬られていそうなものなのですが、これには訳があります。

ある時、磐之媛は祭礼に使う葉(ミツナガシワ)を取りに、紀伊の国(現在の和歌山県)に出かけました。

その留守中、仁徳天皇は八田皇女(やたのいらつめ)という女性とニャンニャンしてw、宮中に召し入れます。

それを知った、磐之媛は採ってきたミツナガシワを海に投げ捨て、その後は八田皇女に嫉妬心を抱いて、亡くなるまで天皇の宮に帰ることはありませんでした。
(磐之媛が亡くなった後、八田皇女を皇后にしています。)

仁徳天皇の女性問題は他にもあり、吉備の国(岡山)の黒日売(くろひめ)や、雌鳥皇女(めとりのおうじょ)などともトラブルがあったそうです。

皇位を争った履中天皇

仁徳天皇陵との間に大仙公園を挟み、南に仁徳天皇の息子であり次代の天皇履中天皇の古墳があります。

古墳の長さは全長約365Mあって、日本で3番目に大きいと言われています。

巨大な権力をもった、仁徳天皇の後の天皇ということで、皇位継承の際には兄弟の住吉仲皇子との間で、皇位を争ったとあります。
(この住吉仲皇子の他に、反正天皇(履中天皇の次の天皇)と允恭天皇(さらにその次の天皇)と兄弟がいた。

ただし、天皇に即位してわずか4年で崩御しており、次代の反正天皇に移っています。

イマイチ印象が薄い反正天皇

前述の履中天皇の皇位争いの件では、直接手を下したわけではないものの、反乱を起こした住吉仲皇子を殺したのが反正天皇と言われており、兄(履中天皇)からの信頼も厚かったのでしょうか。履中天皇の即位2年目には皇太子となっています。
そして、兄の履中天皇が崩御して、次に即位しました。

兄弟継承はこれが初めてだったみたいです。

反正天皇は皇后を立てることも、皇太子を立てることもありませんでした。
彼が即位していた期間は天下太平で、何事もなく5年がたち、60歳で崩御したとあります。

古墳の大きさも148Mということで、人物とともにあまりパッとしないカンジです。

最後に

ということで、今回は仁徳天皇陵、履中天皇陵、反正天皇陵をご紹介しました。

この中百舌鳥古墳群には33もの古墳があるのですが、僕の知識不足もあってか中百舌鳥古墳群でとりあげるのはこれくらいなんですね。笑

次回からはまた古市古墳群の古墳を紹介するのですが、数でいうと残り少ないので、このシリーズもあと数回で終わりを迎えるのかな?と思います。

では、最後までお読みいただきありがとうございました。