どうも、元山狐(もとやまきつね)です。
今回は雄略天皇以降の天皇4代(人)について書いています。
今までは、比較的手元の資料にも情報はあったのですが、このあたりの天皇以降はかなり扱いが薄くて、書くほどのことがあまりありません。
正直今回で終わりにしようかな・・・とも思ったのですが、せっかくここまで続けたので、形だけでも最後の推古天皇まで書きたいと思います。
第22代清寧天皇
清寧天皇(セイネイテンノウ)は雄略天皇の子で、名を白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)といいます。
名前に「白髪」と入っていまして、Wikipediaにはこう書かれていました。
Wikipediaより引用
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
そんな清寧天皇には皇后がいなかったので、子もいませんでした。
雄略天皇の記事で市辺之忍歯王(イチノヘノオシハノミコ)という人物が登場しました。
第17第履中天皇の息子で、大長谷王子にとっては皇位継承のライバルだったため、殺されてしまいました。
そんな市辺之忍歯王には子が2人おり、清寧天皇の臣下が偶然この2人に出会い、宮中に皇子として迎い入れました。
清寧天皇は在位期間が短く、わずか5年で崩御しました。
第23代顕宗天皇
清寧天皇の後は、前項の2人の皇子に継がれることになりました。
2人の皇子は、意祁命(オケノミコト、兄)袁祁命(オケノミコト、弟)という名前でした。
読み方が同じですが、資料によっては表記が違います。
2人は皇位を譲り合いましたが、清寧天皇の臣下に名を明かしたのが弟だったので、弟の袁祁命が即位することになりました。
それが、第23第顕宗天皇(ケンゾウテンノウ)です。
顕宗天皇は、父市辺之忍歯王を殺した雄略天皇のことを凄く恨んでいました。
そこで、雄略天皇の御陵を破壊しようとしました。
しかし、兄の意祁命が
「天皇の墓を壊せば、後世の避難を浴びるだろう。
ただし、「父の分だ~!」ってことで少しだけ土を掘りとってきたよ。
もうこれで十分だろう?」
みたいなこと(?)を言って諭し、天皇もそれで納得しました。
※父の分ってのは少しの土で十分なんだね(笑)
顕宗天皇も在位期間が短くて、子もいなかった為、第24第は兄の意祁命が継ぐことになりました。
第24代仁賢天皇
仁賢天皇の皇后はなんと、父市辺之忍歯王を殺した、雄略天皇の子 春日大娘皇女(カスガノオオイラツメ)です。
なんかすごく複雑な人間関係ですよね。
清寧天皇、顕宗天皇と子がいない天皇が続きましたが、この2人には7人の子がいました。
手持ちの資料には、これといったことが書かれてしませんが、Wikipediaには以下のようにあります。
Wikipediaより引用
仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
第25代武烈天皇
第25代武烈天皇(ブレツテンノウ)について書こうと思っていたのですが・・・。
既に過去に書いていたので、ここではリンクだけ貼っておきます。
で、26代以降の天皇については、さらに手持ちの資料での扱いが小さくなってまして、正直今回で終わりにしようかな~。と思ってたんですが、せっかくここまで続けてきたので、形だけでも推古天皇(スイコテンノウ=古事記に載っている天皇はここまで)まで書きたいと思います。
先に言い訳しておくと、かなり薄っぺらい記事になると思います。(笑)
では、最後までお読みいただき、ありがとうございました。