どうも、元山狐(もとやまきつね)です。
今回も日本神話、古事記でいうところの下巻、古代天皇の1人、代19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)について書きたいと思います。
允恭天皇は、前回の履中天皇、反正天皇とは兄弟にあたります。
男浅津間若子宿禰王(オアサツマワクゴノスクネノミコ)という名前で、やはり長くて覚えにくい(笑)ので、以降は允恭天皇と書くことにします。
再三皇位を辞退していた
允恭天皇は病を理由に皇位を再三辞退していたようです。
しかし、皇后をはじめ多くの臣下が強く申し上げてきたので、天皇に即位したとあります。
つまり、いやいややっていたと。(笑)
兄の履中天皇、反正天皇ともに在位期間はとても短かったのですが、結果的に兄弟達の中でこの允恭天皇が最も在位期間が長く、42年とあります。
金波鎮漢紀武(コムハチニカニキム)という、これも超覚えにくい名前だなぁ(笑)(新羅からきた人らしいので、我々には馴染みにくい音の名前なのかも)。
この人がとてもお薬に通じており、天皇の病気を治したようです。
初めて明日香に宮をかまえた天皇
古墳時代の次には飛鳥時代がやってきます。
ということで、明日香は古代から重要な土地だったと思っていたのですが、この19代で初めてだった。
ちょっと意外じゃありませんか?
初めてつながりの話題で、もう一つありまして、天下の氏や名を持つ人たちの氏姓が乱れていることを危惧して、盟神探湯(くかたち=古代に行われた呪術などを使った裁判のようなもの)を行い、国中の多くの部族の長の氏姓を定めたそうです。
盟神探湯ですが、応神天皇の記事でも武内宿禰と弟の決着をつけるのに用いられていましたね。
木梨之軽太子と軽大郎女
允恭天皇には9人の子がいました。
崩御する前には、長男の木梨之軽太子(キナシノカルオオミコ)が皇位につくことを定めていました。
しかし、この木梨之軽太子には問題がありました。
同母妹の軽大郎女(カルノオオイツラメ)と近親相姦関係にあったのです。
軽大郎女は
「その体の光が衣を通って外に出るほど美しい!」
ということで、衣通郎姫(ソトオリノイラツメ)という別名があるほどでした。
それが原因となって、臣下や民衆は弟の穴穂命(アナホノミコト=後の第20代安康天皇)についてしまいました。
木梨之軽太子はそれを嘆いて、大前小前宿禰大臣(オオマエオマエノスクネノオオオミ)の家に逃げ込みました。
穴穂命が軍を率いて、大前小前宿禰大臣の家を包囲しました。
結局は大前小前宿禰大臣の計らいで、その場で木梨之軽太子は命を落とさずには済んだのですが、伊予国(現在の愛媛県あたり)に島流しされてしまいました。
その後、木梨之軽太子を思い慕って、伊予国にきた軽大郎女と一緒に自害したみたいです。
このお話は、「衣通姫伝説」という一大恋愛叙事詩として伝わっているみたいです。
最後に
今までご紹介してきた、神話の世界でも近親相姦って結構ありましたんで、この時代の頃に近親相姦の罪で失脚し、命を落とすことになるって、自分的には結構意外でした。
こうやって見ると、今回は允恭天皇よりも木梨之軽太子と軽大郎女の話の方がかなりインパクト強いですね。(笑)
今回ご紹介した話ですが、以前允恭天皇の古墳を訪れた時に書いた記事の内容とは結構違う部分があります。
この記事を書いた当時に読んだ資料は、古事記よりは日本書紀寄りだったんでしょうね。
衣通姫伝説に関しても、古事記と日本書紀では結構内容が違うみたいですし。
次回は兄木梨之軽太子を退けて、天皇となった第20代安康天皇について書きたいと思います。
では、最後までお読みいただき、ありがとうございました。