日本神話-25 景行天皇と小碓命・大碓命

どうも、元山狐(もとやまきつね)です。

今回は代12代景行天皇と、小碓命(オウスノミコト=後の倭建命(ヤマトタケルノミコト))、大碓命(オオウスミコト、小碓命の兄)について書いてみます。

景行天皇は倭建命の父というくらいしか認識がなくて、印象薄かったんですが、今回この記事を書いていて、子供の数が、ビッグダディなんか比じゃないくらい多いことを知りました。(笑)


景行天皇について

代12代景行天皇は大帯日子淤斯呂和気(オオタラシヒコオシロワケ)という名前です。

今更になりますが、神武天皇、崇神天皇、垂仁天皇、そして今回の景行天皇も生前このような名前で呼ばれていたわけでなく、死後についた諡号(しごう)といい、生前の特徴や功績から付けられたものです。

・・・が、とても長い名前なので、このブログでは以後は景行天皇と書くことにします。

で、この景行天皇は纏向(奈良県桜井市)の日代宮で政治を行いました。

纏向といえば、この記事で名前は書いていませんが、寄った遺跡が「纏向遺跡」でした。
そういえば、この日にブラブラ歩いていて景行天皇の墓を見た気がします。写真撮っとけばよかった・・・。

大神神社・三輪山・箸墓古墳に行ってみた。(奈良)

まぁ、そんなことはさておき、本題に戻ります。
彼はとても子沢山で、80人もの子がいたとされています。
その中でこの3人が太子の名を得て、次代天皇候補とされていました。

  • 若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)
  • 小碓命(オウスノミコト)
  • 五百木之入日子命(イオキノイリビコノミコト)

で、次の13代成務天皇=ワカタラシヒコとなります。
この成務天皇は、手持ちの資料を読む限りはかなり影が薄いので、おそらくこのブログで取り扱うことはないと思います。(笑)

で、ここからは小碓命=倭建命(ヤマトタケルノミコト)のことを書くつもりですが、以前書いたこの記事とかなり被りそうです。

日本史に疎い僕が百舌鳥・古市古墳群を回ってみた-4 白鳥陵

小碓命と大碓命

小碓命(オウスノミコト)には大碓命(オオウスノミコト)という兄がいました。
※小碓命(オウスノミコト)のことは以下オウスと、大碓命(オオウスノミコト)は以下オオウスと書きますね。

ある日、景行天皇はオウスに
「お前の兄のオオウスが朝夕の会食に出てこない。お前からなだめて出てくるように説得してくれ」
と命じました。

しかし、その後5日経ってもオオウスは会食に出席しません。

天皇はオウスに
「ねぇ?前に言ったよね?兄のオオウスに会食に出席するように言うように。出てこないんだけど?」

それに対して、オウスは
「既に諭しましたよ。」
と答えました。

どのように諭したのかを問うと、
「朝、兄が厠(かわや)に入るところを捕まえて、手足を千切って、蓆(むしろ、藁などを編んで作る敷物)にくるんで投げ捨てました。テヘッ♪」

「それは諭したとは言わず、殺したって言うんだよ!」
とツッコミたかったでしょうが、オウスの乱暴で残忍な性質を恐れた天皇は、オウスを遠征に行かせることで遠ざけようと考えました。

そこで、
「西の方に熊曾健(クマソタケル)という、朝廷に服従しない者たちがいる。その者たちを討ち取ってこい。」
と命じました。

大碓命について

登場するや即殺されてしまったオオウスですが、古事記と日本書紀ではかなり扱いが違いますが、どちらにも共通してかなりの困ったチャンだったようです。

  • 父(景行天皇)に嫁ぐはずの女性を横取りして、偽物の女性を嫁がせる
  • 父に美人らしい女性を見に遣われたが、その女性を娶る
  • 蝦夷(えぞ、この当時は北海どうだけでなく関東や東北も含むようです)征伐を命じられたがビビって隠れてしまう。

この時点で、天皇からなんらか制裁を受けていてもおかしくなさそうなんですが・・・。(笑)

このブログでは古事記をベースで、紹介しているので今回はオウスに殺されてしまいますが、日本書紀では蝦夷征伐を命じられてビビったことで、代わりに美濃を任せられるということで殺されてはいないようです。

最後に

この記事書いていて思ったんですが、景行天皇も子がたくさんいたし、オオウスも天皇がらみの女性を横取りしているエピソードが目立つんですが、親子揃って好色者だったんでしょうね。(笑)

次回からは、オウスの各地討伐のエピソードを中心に紹介したいと思います。

では、最後までお読みいただきありがとうございました。